天府漫遊記

中国四川省成都市の過去と現在の諸々を思いつくままに日本語情報として発信します。当面は、現地情報の日本語訳が主な内容になります。

成都歴史年表

以下は、インターネット検索「百度」(baidu.com)の「百度百科」より抜粋した内容の日本語訳である。


紀元前5世紀中葉の古代蜀国開明王朝9世の時、都城を広都樊郷(双流)より成都へ写し、都市建設を行ったと史書に記載されている。。しかしながら、金沙遺跡の発掘資料によれば、成都の都市建設は、3200年前に遡ることができる。
成都の名称の由来に関し、「太平寰宇記」は、「周王岐へ遷る“居所1年にして聚と成り、2年にして邑と成り、3年にして都と成る”という西周の建都物語に因み、蜀都の名称とした」と記載されている。蜀語の「成都」の二字の発音が即ち「蜀都」であった。「成」は「卒」、「終」であり、成都の意味するところは、「蜀国終了の都市」或いは「最後の都市」と言われる。[1]
紀元前256年には、今も使われ続けている都江堰の水利工事が行われた。
紀元前316年 蜀国及び巴国が相前後して秦に併呑される。
       秦の張儀[2]、司馬錯[3]による太城(府南城、亀城)の築城。
       翌年張儀、太城の西に少城(府西城)を築城。
紀元前256年 蜀郡太守の李冰、人物石像を作り都江堰の水位を測定。中国最古の水尺。
紀元前141年 蜀郡太守の文翁、中国初の地方官立学堂「文翁石室」を成都に建設。
紀元前106年 秦末、漢初の頃、成都を”天府”と称する。
紀元前106年(前漢元封5年) 漢の武帝、天下を13州に分け、益州を設置。
       王莽、益州を庸部に、蜀郡を導江に改め、臨邛[4]を治める。
西暦24年(新地皇5年)公孫述、皇帝を称し、成都を”成家”とする。又、益州を司隷に蜀郡を成都尹に改める。後漢時、蜀郡に復す。
後漢末劉焉が”益州牧”となり、広漢郡雒県より成都に移り、成都を州、郡、県の治所とする。
前漢時代、成都は絹織物業が非常に発達、“錦官”[5]が設置された。それ故、“錦官城”即ち“錦城”とも称される。秦漢時代の成都は商業が発達、秦代には既に全国的大都市であった。前漢時代、成都の人口は、7.6万戸、40万人近くを数えるに至っていた。
漢代、成都は世界の漆器工芸の中心地であり、中国の茶文化の生誕地でもあった。
成都は三国時代、蜀漢の首都であった。後漢末、天下騒乱し、群雄は覇を競った。漢室の皇族であった劉備は、軍閥混戦の内に決起した。延康元年(220年)、曹操の子、曹丕が漢王朝を簒奪、翌(221年)、劉備は漢室皇族の身分を以って蜀地蜀都に皇帝を称して漢朝の皇統を繋いだ。蜀漢は、昭烈帝劉備に始まり、漢懐帝劉禅に終わる。歴代二帝計43年であった。最盛期には荊州及び益州を占拠し、国力強盛であったが、関羽の荊州失陥、劉備の夷陵敗北後、活力を失った。その後、諸葛孔明の治世により生産を回復し、魏並びに呉と拮抗し得るまでになった。
晋の武帝[6]は蜀郡を成都国へ改めたが、程なく元の呼称へ復した。
西暦304年 李雄が成都に“大成”を建国、歴史上“成漢”と呼ばれる。
西暦347年 成漢が、東晋の桓温に滅ばされる。歴代5主、計43年であった。
南朝の宋、斉以後、益州及び蜀郡の治所は全て成都であった。益州刺史[7]は太城に在り、成都内史[8]は少城に在った。
西暦348年―354年 東晋の常璩が、現存する中国最古の地方誌である「華陽国志」を編纂。後周が、益州総管府を置く。
西暦582年 (隋開皇二年)西南道行台へ改められる。翌年、総管府へ復す。
西暦605年 (大業初年)府を廃止。隋の煬帝が益州を改め、蜀郡とする。
西暦618年 (武徳初年)唐朝が益州へ復し、総管府を置く。
西暦620年 (武徳三年)西南道行台へ改められる。
西暦626年 (武徳九年)都督府へ改められる。
西暦662年 (龍朔二年)大都督府へ昇格。
西暦742年 (天宝初年)蜀郡へ復す。
西暦757年 (至徳二年)玄宗皇帝の行幸、行在所となり、成都府へ昇格。南京となり成都守を尹へ改める。同時に、剣南を東西両川に分かち、成都を西川節度使の所在地とする。
西暦760年 (上元初年)首都を廃止。但し、成都府は不変。
唐代、成都は経済発達、文化繁栄、仏教盛行し全国四大都市(長安、洛陽、揚州、成都)に数えられた。農業、絹織物業、手工業、商業が発達し、製紙及び印刷技術が急速に発展した。唐代、成都には文学者が雲集した。大詩人の李白、杜甫、王勃、盧照隣、高適、岑参、薛濤、李商隠、雍陶、康術等が成都へやって来て居を構えた。唐代、成都では摩訶池、百花潭等の観光地が開発された。貞観年間、城北に建元寺を建立、大中年間に照覚寺へ改名、「川西第一の叢林」と呼ばれた。唐代の成都では世界で最も早く木版印刷が発明され、使用された。世界最古の印刷物が今でも成都に残されている。
西暦907年 朱温が唐を滅ぼし、「後梁」政権を打ち建てる。
これより、中国史は、五代へ突入する。
王建が「三川」に割拠し、成都にて皇帝を称する。国号は蜀、史上「前蜀」と呼ばれる。王建は治世に励み、蜀の経済・文化は往時の繁栄を取戻したが、晩年には衰えを見せ、幼くして即位した次の王衍は、即位僅かに7年であった。
西暦925年 後唐の庄宗が郭崇を派遣し蜀を討伐。前蜀の後主王衍が投降し、前蜀滅亡。後唐は孟知祥を西川節度副使に任命、後唐衰退後、西暦934年孟知祥が成都において皇帝を称し、国号を蜀とする。史上「後蜀」と呼ばれる。同年秋、孟知祥病死、三男の孟昶
が16歳にして即位、業績頗る宜しく、統治すること30年、後に功に走り、盲目的に関中へ出兵、庶民の負担増加、国力の衰退を招いた。
西暦965年 宋により滅ばされる。孟より投降を願い出て、同年開封にて急死。
後蜀の後主孟昶は、中国で始めての春聯[9]「豊年納余慶 嘉節号長春」を自ら認めたとされている。成都の画家黄筌は中国画の細密花鳥画派を創始し、風流好みの後蜀の後主孟昶は中国最古の皇室画院「翰林図画院」を創設した。後蜀の趙崇祚は、詞集「花間集」を編纂した。
西暦981年 (宋太平興国六年)成都府を益州へ降格。
西暦988年 (瑞拱初年)成都府復活。成都を西川節度使、成都府路の所在地とする。
西暦994年 (淳化五年)益州へ降格。
西暦1053年 (嘉佑五年)成都府復活。
宋朝時代、成都経済は異常に発達し、全国第一の大都会となった。錦織を例に挙げると、その模様は唐時代の十数種類から宋代には四十数種類へと発展し、天馬、流水飛魚、百花孔雀、如意牡丹等の新種模様を織り出すことができるようになり、全国取引量の70%以上を占めるまでになった。商業の発達に伴い、成都に世界最古の紙幣“交子”が出現し、“交子”を取扱う世界最古の官立貯蓄銀行が設立された。
西暦1082年前後、北宋の名医唐慎微は現存する中国最古の薬学辞典「経史証類備急本草」を著した。北宋仁宗の時、益州(即ち成都)において、官立の交子業務取扱所が設立され、公的に“交子”の印刷発行が行われた。
西暦1257年 (南宋宝佑五年)蒙古元軍が成都攻略。
西暦1286年 (蒙古元至元二十三年)成都路を設置、四川行省に所属。
西暦1360年 (元至正二十年)明玉珍が大夏国を建国。成都刺史府に改称。
西暦1371年 (明洪武四年)明軍が明玉珍建国の大夏国政権を攻め滅ぼし、成都に四川承宣布政司を設置。成都は、布政司の首府であった。明の太祖朱元璋は、その第十一子の朱椿を蜀王に封じ、王府を成都に設ける。現代人は、それを「皇城」と呼ぶ。
西暦1644年 (明崇禎十七年)張献忠が軍を率いて成都へ攻め入り、自立して皇帝を称する。国号は大西、成都を西京と称する。
清軍の四川進駐に対し、四川漢人が激しく抵抗した為、戦乱は多年に及び、人口が大幅に減少した。満族清朝の康煕年間、満清朝廷は「湖広填四川」[10]大移民を実施、成都は徐々に活気を取り戻し、省都も成都へ戻される。清朝は明朝の制度に沿い、四川布政使司を成都に設置。皇帝は、別に四川総督を派遣、成都将軍が成都に駐在した。
西暦1863年 (清同治二年)太平天国の将領、翼王石達開が四川侵攻、成都攻略に失敗し、清軍の捕虜となり、成都城内「科甲巷」において極刑[11]に処せられる。
西暦1911年6月 成都において、「保路運動」が発生。清朝の四川総督趙爾豊の民衆鎮圧がもたらした「成都流血事件」が民衆決起を誘発し、辛亥革命勃発の直接的導火線となり、中国のブルジョア民主革命に不朽の功績を打ち立てた。
西暦1911年11月27日 立憲党員の蒲殿俊が成都において、四川の清朝離脱、大漢軍政府成立を宣言し、都督に就任。
西暦1912年3月12日 成都の大漢軍政府を四川軍政府へ改める。軍政府駐在地:成都、都督:尹昌衡。
西暦1914年 (民国三年)北洋政府の通達により、成都、華陽等31県からなる西川道を成都に設置。その後、道を廃止し省を復活、成都が省都。
西暦1949年12月27日 中国人民解放軍成都進駐。成都を川西行署の駐在地とする。
西暦1952年 中華人民共和国中央人民政府、各行署を撤廃。四川省復活後省都となる。
西暦1989年2月 成都市が、計画単列都市[12]に認定される。
西暦2011年5月5日 国務院、「成渝経済区区域計画」[13]を承認。
西暦2014年10月2日 国務院、「天府新区設立」[14]を承認。



<訳者注>
[ 1]:諸説あり
[ 2]:張儀は、戦国時代の著名な縦横家。秦の国相(大臣)。
[ 3]:司馬錯は、「史記」の作者司馬遷の八世の祖。戦国期の秦の有力将軍。
[ 4]:現在の邛崃市。
[ 5]:成都の錦織は、朝廷にとって重要な貢物であった為、その管理のため「錦官」を設けて管理に当たらせた。その為、成都城(太城、少城)の西南部(現在の武侯祠の東南当たり)に「錦官城」を建設した。「錦官城」、「錦城」は現在でも成都の別称として使用されている。
[ 6]:晋の初代皇帝、司馬炎。司馬懿(仲達)の孫。
[ 7]:刺史は、中央から派遣される地方監察官。
[ 8]:地方の封国の行政長官。
[ 9]:春聯とは、春節の時、各家々の門に飾る目出度い言葉の対聯。
[10]:「湖広填四川」とは、明末清初に起こった四川大虐殺の結果、四川省の人口が激減、(一説には人口の9割が虐殺された)その為、人口の空白を補うため清初に行われた移民政策。「湖広」とは、四川周辺の湖南、湖北、広東、広西をさすが、福建等の地域からの移民もあった。従って、現在では純粋の四川人、成都人は皆無と言われている。
[11]:原文は、「凌遅処死」となっている。手足を切り落とし、その苦痛によって死に至らしめる極刑のこと。
[12]:計画単列市とは、行政区分(権限)は、一級行政区(直轄市及び省、自治区)に属するが、予算編成等の経済管理に関しては、一級行政区と同等の権限が与えられた都市。目下、15都市が、計画単列市となっている。
[13]:成(成都)と渝(重慶の別称)の二大都市を中核とする四川・重慶総合開発計画。
[14]:「天府新区」は、「成渝経済区」の成都サイドの目玉プロジェクト。深圳、浦東、天津濱海に次ぐ、第4の巨大開発プロジェクトと言われている。