天府漫遊記

中国四川省成都市の過去と現在の諸々を思いつくままに日本語情報として発信します。当面は、現地情報の日本語訳が主な内容になります。

成都の名前の由来

1958年3月[1]、車から降りた毛沢東は出迎えの四川省並びに成都市の幹部達に、「成都って、どうして成都って言うの?」と軽い言葉で問いかけた。それに対し、居並ぶお歴々の誰一人も答えることができなかったというエピソードが伝わっている。

今では、「成都」の地名の由来について、成都市人民政府のホームページ(HP)[2]に、「紀元前4世紀、蜀の開明王朝が都を成都に遷した時、周王が岐へ遷都した際「1年にして邑(町)を成し、2年にして都(都会)を成した」という故事に因んで成都と名付けられた。」と説明されており、同じHPの別コーナーでは、「宋の“太平寰宇記”[3]は、「成都」の名前の由来は「一年にして聚(集落)と成り、二年にして邑(町)と成り、三年で都(都会)と成る」という言葉であると認識している」と紹介している。
又、在重慶日本国総領事館(重慶総領事館)[4]の四川省概要には、「成都の名前は蜀の開明王朝が都を移す際、この地は豊かで戦乱が少なかったことから「一年で人が集まり、二年で都に成った」ことに由来する、と言われています。」とある。
どうやら以上が、日中両国政府筋の公式見解のようである。
よく似ているが、微妙に違っている。
(成都市に至っては、同じHPで二種類の説を紹介している)

・都に成ったのは、二年か?それとも三年か?
・成都への遷都と、地名の選定とはどのように関係しているのか?
・豊かで戦乱が少なかったから、人が集まってきたのか?

まづ、唯一出処が明らかとされている、“太平寰宇記”の記載内容を確認したい。

成都図書館に所蔵されている嘉慶八年(1803年)版の巻七十二、成都県のくだりを全文書き写し、抄訳する。
「成都縣舊二十四鄉今一十九鄉漢舊縣也以周太王從梁山止岐山一年成邑二年成都因名之曰成都揚雄蜀本紀云蜀王據有巴蜀之地本治廣都樊鄉徙居成都秦惠王遣張儀司馬錯定蜀因築成都而縣之都在赤里街張若徙至少城內始造府縣寺舍令與長安同制」
抄訳:「成都県、旧24郷、今19郷、漢の旧県である。周の太王梁山より岐山へ遷る一年にして邑と成り二年にして都と成る、を以ってこれを名づけ成都という。揚雄の蜀本記[5]に云う蜀王は巴蜀の地を有し広都樊郷に拠りて治めるが成都へ遷る。秦の恵王、張儀及び司馬錯を遣わし蜀を平定し、成都(城)を築き、之を県とし、都は“赤里街”にあり。張若は少城内へ移り、諸官庁を造営し、長安と同様の制度を行う」
ここで確認できたことは、
1. 成都市HPで、“太平寰宇記”は、「三年で都と成る」と認識していると紹介されているが、そのような記載はない。記載は、「二年」である。
2. 成都市HPも重慶総領事館も、「開明王朝の遷都」との関連が指摘されているが、“太平寰宇記”には、そのような記載はない。
只、“蜀王本記”の引用として、蜀王が広都樊郷より成都へ遷ったことを記載しているのみで、これと名称の由来との関係には言及されていない。

さて、“太平寰宇記”は何故「周の太王梁山より岐山へ遷る一年にして邑と成り二年にして都と成る」と記載したのだろうか?
私は、司馬遷の“史記”が原典であると考える。
“史記・五帝本紀”に、帝舜の徳を称える記述として、「一年而所居成聚、二年成邑、三年成都」(舜の住む所には、人々がその徳を慕って集まってくるので、1年にして集落ができ、2年にして町ができ、3年で都会に成る)がある。
(成都市HPの“太平寰宇記”に「三年で都に成る」は、“史記”の間違い)
又、“史記・周本紀”には、周の古公亶父(=太王)の逸話として、以下の記述がある。(長いので概略のみ)「・・・梁山を超え岐山の麓に至って居住する。周辺諸国の多くが古公の仁徳を慕って帰属した。・・・城郭を造営し、宿坊を建築し、民衆は町に分散して定住した。・・・」(周本紀には、二年にして都に成るとの記述はない)

つまり、“太平寰宇記”は“史記”の二つのエピソードを、不正確に、一つにして「成都」の由来を説明した「創作」であると考える。何よりも、岐山の麓と四川省成都市は、かなり離れた場所にあるにも関わらず、名称由来の関連性については、何らの説明もなされていない。

では、「開明王朝の遷都」物語は、どこからきたのだろうか?
“太平寰宇記”は、“蜀王本紀”を引きながら、「蜀王」としているが、「開明王朝」とはしていない。したがって、成都市及び重慶総領事館は、“蜀王本紀”或いは“太平寰宇記”を直接の根拠としたのではないことが判る。“華陽国志”[6]の「開明王自夢郭移乃徙治成都」(開明王、城郭を夢見たことにより、移りて成都を治める。夢郭より成都へ移るとの解釈もあり)に依ったと考えるのが自然である。
この場合、1)当時既に「成都」と呼ばれていた場所へ遷ったのか?2)遷った場所を新たに「成都」と名づけたのか?3)当時は別の名前であったが、現在(“蜀王本紀”や“華陽国志”が編纂された時点)で「成都」と呼ばれている場所へ遷ったのか判然とせず、また説明もない。(私は3)と考えている)

以上の考察より、成都市及び重慶総領事館の「成都」の名前の由来に関する見解は、“太平寰宇記”の創作物語の上に、更に“華陽国志”の記述に基づく新たな創作を加えて創りだした「説明」である可能性が極めて高いことを指摘せざるを得ない。即ち、信憑性は低いと断ぜざるを得ない。

又、重慶総領事館の説明には、「豊か」であったことが人の集まる理由に上げられているが、中国の史書によると人が集まる理由は、君主の徳を慕うのであって、豊かさを求めるのではない。更には、重慶総領事館が説明する「開明王朝」の時代に成都が豊かな場所であったかどうか?答えは、否である。何故なら、当時成都平原は度重なる洪水で湿原が拡がっていた。秦による蜀の併呑(B.C.316年)以降、都江堰の水利工事(B.C.256年開始)の成功による灌漑と大規模な入植で農地開発が盛んに行われ、成都平原が豊かな農地に生まれ変わり、「天府の国」と呼ばれるようになったのは、秦末漢初の頃と言われている。
この点でも重慶総領事館の説明には、妥当性を欠くと言わざるを得ない。

では、その他の「成都」の由来の説明はどうだろうか?前回の当ブログ記事にある、蜀語の「成都」の発音が「蜀都」であったとは、成都の名称の由来としては説明になっていない。又、蜀語の蜀都を表すduduという発音を中原の漢人が漢訳して「成都」としたとする説がある。
あり得るかもしれない。しかし、根拠が示されていない。蜀語の発音を誰がどのように復活したのだろうか?「成」の上古音発音は、どの説に照らしてもduとは程遠い。あり得るかもしれないとしたのは、中国人が外国語の固有名詞を漢訳する場合、原語の音に近い発音の漢字を選び、漢字本来の意味を加味して漢訳語とすることが多い。従って、当時の現地人の発音を中原の漢人が「成」の字を以って表し、それに場所を表す「都」を補って「成都」と訳した可能性は大いにある。
これに関し、「中国地名由来詞典」(中央民族大学出版社、牛汝辰/編)による
と、「成都は、氐羌語である。“成”は蜀人の自称であり、高原人という意味。
“都”は、地区或いは地方。即ち、“成”人の地方という意味」とある。
現代人の知識に基づく、「解釈」による説明に思えてならない。
「可能性」はあるものの、根拠に乏しく想像の域をでない。

さて、以上の通り従来語られてきた「成都」の由来について否定的見解を述
べてきたが、成都晩報に2015年9月25日と同10月9日の2回に分けて連載された
李殿元教授の新説を紹介したい。
教授は、「成都」の名称が使われるのは、秦が蜀を併呑し、現在の成都の地
に城(城壁で囲まれた町)を築いて「成都県」を設置して以降であるとの見
解を述べられ、考古学的にも「成都」の二文字が刻まれた文物の出土はこの
時期以降に限られると述べておられる。
その上で、秦に征服された蜀の文化・文字は統一の過程で消滅したので、蜀由来で「成」を地名に採用することはないとする。
教授は、「成都」の地名の内、「都」は所を表す文字なので、キーワードは「成」の文字であることを指摘した上で、「成」の文字は元々「武力征服」を表す文字であり、“辞源”によれば「成」の字義は「平定」、「停戦、和解」、「終了、達成」等であることより「成都」の命名が軍事に関する征服者(=秦)の意図を反映したものであるとし、そのことは蜀征服の8年後(B.C.308年)に蜀兵10万を率いて、長江下流の楚を討つという軍事行動によっても確認できるとも述べておられる。つまり、秦の意図は、初めて武力によって征服した国に、「武力征服」を意味する「成都」という名の軍事拠点を築き、その後の長江下流域の攻略拠点とすることにあった。それ故に「征服」、「平定」を意味する「成」の字を以って地名としたとするものである。非常に説得力のある卓見だと思う。

最後に、現代の成都人による自虐ネタを紹介して、本稿を閉じることとしたい。
即ち、「成都(Chengdu)は、埃っぽい街だから塵都(Chendu)」である。

[1]:中国共産党は、1958年3月8日から26日まで、成都市において「中央政治局拡大会議(成都会議)」を開催。
[2]: http://www.chengdu.gov.cn/
[3]:“太平寰宇記”は、宋の太平興国年間(西暦976―983年)撰の地理志。撰者は、楽史。
[4]: http://www.chongqing.cn.emb-japan.go.jp/kankatsukuiki.htm
[5]: “太平寰宇記”には「蜀本紀」と記載されていたため、抄訳中においては、原文のママ「蜀本紀」としたが、正しくは「蜀王本紀」である。従って、訳文以外の箇所は、“蜀王本紀”とした。
  “蜀王本紀”は、揚雄(B.C.53-A.D.18,蜀郡成都人)撰の古代蜀王国歴代王の伝記。
[6]:“華陽国志”は、古代中国西南地方の歴史、地理、人物等を記した、中国最古の地方誌。
  常璩が、晋の穆帝永和四年~十年(西暦348年―354年)にかけて著したとされる。